三島由紀夫の子供は何人?娘紀子と息子威一郎の現在と父への愛情

皆さんは三島由紀夫さんが結婚して子供がいたことをご存知でしたか?『仮面の告白』『金閣寺』など数々の名作で知られる天才作家の三島由紀夫さん。1970年に45歳という若さで自決されたため、独身だったのかと思われがちですが、実は2人の子供に恵まれていたんです。

今回は三島由紀夫さんの子供について詳しくお話していきますね。娘の平岡紀子さんと息子の平岡威一郎さん、お二人とも現在はそれぞれの道で活躍されています。父親としての三島由紀夫さんはどんな方だったのか、そして残された家族のその後はどうなったのか。気になるエピソードをたくさん集めました。

三島由紀夫さん自身の子供時代の作文についても触れていきます。あの天才作家がどんな子供だったのか、想像するだけでワクワクしますよね。父親と息子・娘、そして三島由紀夫さん自身の子供時代まで、家族の物語を丁寧にお伝えしていきたいと思います。

それでは早速、三島由紀夫さんの子供たちの物語を見ていきましょう。きっと皆さんが知らなかった一面を発見できると思いますよ。

目次

三島由紀夫の子供は2人!娘と息子の基本情報

長女・平岡紀子さんの生い立ち

三島由紀夫さんの長女である平岡紀子さんは、1959年6月2日に誕生されました。三島さんが34歳の時の初めての子供だったんです。虎ノ門病院で生まれた紀子さんを、三島さんは新生児室のガラス越しに見つめていたそうです。その時の三島さんの気持ちを想像すると、なんだか胸が熱くなりますね。

お七夜で「紀子」と名付けられましたが、実は三島さんは最初「尹」という名前を考えていたそうです。ただ当用漢字にないということで諦めたんだとか。その代わりに後に書かれた小説『宴のあと』の登場人物に「沢村尹」と名付けたという、なんとも三島さんらしいエピソードが残っています。

紀子さんは学習院幼稚園から大学まで一貫して学習院で学ばれ、なんと現在の天皇陛下と幼稚園・初等科で同級生だったという驚きのエピソードがあります。さすが三島由紀夫さんの娘さんという感じですよね。最終的には学習院大学文学部仏文科を卒業され、非常に優秀な方だったことがわかります。

長男・平岡威一郎さんのプロフィール

三島由紀夫さんの長男である平岡威一郎さんは、1962年5月2日に誕生されました。紀子さんから3年後、三島さんが37歳の時の子供です。威一郎さんは姉の紀子さんと一緒に大田区馬込の家で育ちました。

威一郎さんの教育にも三島さんはこだわりがあったようで、小学校はお茶の水女子大学附属小学校、中学は開成中学校に通われました。ただ、中学卒業後には渡米されるという、かなり国際的な教育を受けられています。帰国後は映画監督の市川崑さんのもとで映画製作の手伝いをされたそうです。

威一郎さんは現在「元実業家」という肩書きで、父親の三島由紀夫さんの著作権保護や関連書籍の監修に携わられています。父親の遺志を継ぐような形で活動されているんですね。映画『春の雪』の企画・監修なども手がけられており、その際は「三島威一郎」と名乗られていました。

三島由紀夫の妻・平岡瑤子さんについて

子供たちのお母様である平岡瑤子さん(旧姓:杉山)についても少し触れておきますね。瑤子さんは日本画家の杉山寧さんの娘で、三島さんとの結婚時は日本女子大学の学生でした。お見合いで出会い、三島さんが一目惚れしたんだそうです。

結婚当時、三島さんは33歳、瑤子さんは21歳という12歳の年齢差がありました。瑤子さんは結婚のために大学を中退し、専業主婦として三島さんの文筆活動を支えられました。気性は江戸っ子らしく、12歳年上の三島さんに対してもズケズケとものを言う女性だったそうです。

瑤子さんは三島さんの自決後も、遺作の整理や著作権保護に尽力され、1995年7月31日に58歳で急性心不全により亡くなられました。三島さんを25年間も支え続けた素晴らしい女性だったんですね。

三島由紀夫の子供たちの現在の活動

三島由紀夫の子供たちの現在の活動

紀子さんの舞台演出家としての活動

平岡紀子さんは現在、舞台演出家として活動されています。特に注目すべきは、三島由紀夫さんの没後20年にあたる1990年1月に、父親の戯曲『葵上』と『弱法師』を舞踊劇としてプロデュース・演出されたことです。父親の作品を舞台で蘇らせるなんて、本当に素敵なお話ですよね。

1990年9月24日には外交官の冨田浩司さんと結婚され、現在は冨田紀子さんとしてお過ごしです。外交官夫人としてシンガポールに駐在され、現地でお子さんも出産されました。つまり、三島由紀夫さんのお孫さんがいらっしゃるということなんです。

紀子さんは母親の瑤子さんが亡くなった後、弟の威一郎さんと共に三島由紀夫さんの著作権保護にも積極的に取り組まれています。福島次郎氏の小説『剣と寒紅』における三島さんの書簡無断使用に対しては、著作権侵害として裁判を起こし、見事勝訴されました。父親の名誉を守る姿勢は本当に立派だと思います。

威一郎さんの多彩な経歴と現在

平岡威一郎さんの経歴はとても多彩で興味深いんです。中学卒業後の渡米から始まり、帰国後は映画監督の市川崑さんのもとで映画製作に携わられました。成人後は映画の助監督を経験され、その後1988年に銀座に宝飾店「アウローラ」を開店されました。

1990年代前半には作詞家を志され、売野雅勇さんに弟子入りもされたんです。ただ、威一郎さんの作る詞は「典雅すぎる」ということで、大衆向けの歌謡曲には向かないと判断され、半年ほどで断念されたそうです。これは父親譲りの文学的才能の表れかもしれませんね。

現在は三島由紀夫関連の書籍や映画の企画・監修に専念されており、1999年の『三島由紀夫映画論集成』の編集・監修、2005年の映画『春の雪』の企画・監修などを手がけられています。700ページにもわたる『三島由紀夫映画論集成』は三島研究において重要な一冊として評価されているんです。

兄弟で守る父親の遺産

紀子さんと威一郎さんは、お二人で力を合わせて父親の三島由紀夫さんの遺産を守り続けています。特に著作権保護については積極的に取り組まれており、無断使用に対してはきちんと法的措置を取られています。これって、本当に大変なことだと思うんです。

1998年に出版された福島次郎氏の小説『剣と寒紅』では、三島さんの書簡が無断で公表されていました。これに対して兄弟は著作権侵害で訴訟を起こし、2年後に勝訴されました。すでに10万部発行され、9万部が売れていた本が廃刊になったという大きな判決でした。

現在もお二人は三島由紀夫さんの作品の価値を守り、後世に正しく伝えるための活動を続けられています。父親を早くに亡くした兄弟が、こうして父親の遺志を継いでいる姿には本当に感動します。文学者としての三島由紀夫さんの功績が、お子さんたちによってしっかりと守られているんですね。

父親としての三島由紀夫のエピソード

父親としての三島由紀夫のエピソード

娘への深い愛情と複雑な心境

三島由紀夫さんが父親としてどんな方だったか、とても興味深いエピソードがたくさん残っています。紀子さんが生まれた時、三島さんは意外にも「怪物的であって、あんまり可愛らしくないので、これなら溺愛しなくてもよさそうだ」と語っていたんです。でも、これは三島さんらしい照れ隠しだったのかもしれませんね。

時間が経つにつれて、三島さんの気持ちは変化していきました。「これは並々ならぬ可愛いもの」「人から見て可愛くも何ともないものが可愛く見えるということは、すでに錯覚である。困ったことになったものだと私は思った」と、愛情を「不安」という言葉で表現されています。これって、すごく三島さんらしい複雑で深い愛情表現ですよね。

三島さんは紀子さんが1歳の時、妻の瑤子さんと二人だけで3か月間の海外旅行に出かけ、ディズニーランドから可愛い絵葉書を送っています。「のり子ちゃん元気ですか? お父様とお母様はディズニィ・ランドへ行きました」という文面からは、娘への愛情がひしひしと伝わってきます。

息子との微笑ましい日々

威一郎さんに対しても、三島さんは深い愛情を示されていました。「威一郎が可愛くて可愛くて仕方ない」と公言されていたそうです。ただ、息子に対しては「どんなことをしても、小説家だけはなってもらいたくない」「こんなサーカスの綱渡りみたいな危険な職業を選ばせたくない」と、将来をとても心配されていました。

威一郎さんが6歳の頃の有名なエピソードがあります。息子の友達が家に遊びに来ると、三島さんはボディビルで鍛えた胸を叩いて怪獣のような奇声を発して子供たちを脅かすのが恒例となっていました。一番幼い子などは、本気で平岡家には怪獣が住んでいると信じ込んでいたそうです。

三島さんは有名人として子供たちの人格形成に害を及ぼすことを危惧し、雑誌などで写真を撮らせない方針を徹底していました。これも父親としての愛情の表れだったんでしょうね。子供たちが普通に育ってほしいという親心がよく表れています。

最期まで子供を想った父親

1970年11月25日の自決の日、三島さんは楯の会の4名と車で市ヶ谷駐屯地へ向かう途中、学習院初等科校舎の近くで一時停車されました。その時、「わが母校の前を通るわけか。俺の子供も現在この時間にここに来て授業を受けている最中なんだよ」と、紀子さんのことを気にかけていたんです。

最期の瞬間まで、子供たちのことを思っていた三島さん。この言葉を聞くと、本当に胸が締め付けられます。あんなに激しい政治的信念を持ちながらも、父親としての愛情は変わらなかったんですね。自分の行動が家族にどんな影響を与えるか、きっと深く考えていたはずです。

三島さんは江河弘喜さんの初めての子供の名付けを依頼された時、「人生最初に得る我児は、何ものにも代えがたく、一挙手一投足が驚きであり、天の啓示の如きものを感じますね」と綴りました。これは三島さん自身の父親としての実感でもあったのでしょう。天才作家の父親としての愛情がこの言葉に込められていると思います。

三島由紀夫自身の子供時代と作文

学習院時代のエピソード

三島由紀夫さん自身の子供時代についても触れてみたいと思います。1931年4月、公威(きみたけ)という本名で学習院初等科に入学されました。華族中心の学校でしたが、平岡家は平民階級だったため、祖母・夏子の伯父である松平頼安さんが保証人となって入学されたんです。

学習院の校風は質実剛健が基本で、級友だった三谷信さんは入学当時の公威少年の印象を語っています。色白で華奢な体つきから「アオジロ」というあだ名がついていたそうです。初等科6年生の時には、同級生から「お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄されましたが、三島少年はサッとズボンを開けて堂々と反撃したという、なんとも大胆なエピソードが残っています。

1936年の6年生の時には、二・二六事件があった年で、三島少年は「わが国旗」という作文を書いています。日の丸について「非常な威厳と尊さがひらめいている」と表現したその作文からは、後の政治的思想の萌芽が感じられますね。

文学的才能の早期開花

三島少年の文学的才能は本当に早くから開花していました。中等科時代には、先輩の坊城俊民さんから文芸部の雑誌「雪線」を渡され、そこに自分の小説が掲載されていることを知らされたんです。坊城さんは当時の三島少年について「全身にはじらいを示し」「少年のやさしい魂を垣間見た」と回想されています。

1940年には「破滅的心情の詩」を書くなど、後の作風を彷彿とさせる作品を早くも発表していました。母親の倭文重さんに連れられて詩人の川路柳虹さんを訪問し、師事を受けるなど、文学への道筋は着実に築かれていたんですね。

1939年には祖母の夏子さんが亡くなり、同年4月には清水文雄先生が国語の担当となって三島の生涯の師となりました。平安朝文学への目を開かせてくれた清水先生との出会いは、三島文学の方向性を決定づけた重要なものだったんです。天才の才能を見抜き、正しい方向に導いてくれる先生との出会いって、本当に貴重ですよね。

子供時代が与えた影響

三島由紀夫さんの子供時代を振り返ると、後の作家としての資質がすでに現れていたことがよくわかります。華族中心の学習院という特殊な環境、祖母・夏子さんの大名華族意識、そして文学への早期の目覚め。これらすべてが三島文学の土台となったんでしょうね。

特に注目すべきは、子供の頃から「美」と「死」に対する独特の感性を持っていたことです。破滅的な心情を詩に表現したり、日の丸の威厳を作文に書いたりと、普通の子供とは明らかに違う感性を示していました。これが後の『金閣寺』や『憂国』といった名作につながっていくんですね。

三島さんの子供時代の作文や詩は、天才作家の原点を知る貴重な資料として現在も研究されています。自分の子供たちにも文学的才能を期待しながらも、小説家にはなってほしくないと願った三島さんの複雑な心境も、この子供時代の経験があったからこそなのかもしれません。親として、作家として、そして一人の人間としての三島由紀夫さんの深い思いが伝わってきます。

まとめ

三島由紀夫さんの子供について詳しく見てきましたが、いかがでしたでしょうか。2人の子供に恵まれていたこと、そして現在もお二人がそれぞれの分野で活躍されていることがよくわかりました。娘の平岡紀子さんは舞台演出家として、息子の平岡威一郎さんは父親の遺産を守る活動にと、それぞれが三島由紀夫さんの精神を受け継いでいらっしゃいます。

父親としての三島由紀夫さんのエピソードは本当に微笑ましく、厳格な作家・政治活動家としての顔とは全く違う、愛情深い父親の姿が印象的でした。ボディビルで鍛えた胸を叩いて子供たちを楽しませたり、自決の日まで子供のことを気にかけていたりと、家族への愛情の深さには感動させられます。私も母親として、三島さんの子供への愛情の表現には共感する部分がたくさんありました。

三島由紀夫さん自身の子供時代についても、天才の片鱗が早くから現れていたことがよくわかりましたね。学習院での「わが国旗」という作文や、文芸部での活動など、後の大作家への道筋がしっかりと築かれていました。そんな三島さんだからこそ、自分の子供たちには「小説家にはなってほしくない」という複雑な思いを抱いていたのかもしれません。現在、お子さんたちが父親の遺産を大切に守り続けていることは、三島由紀夫さんにとって何よりの供養になっているのではないでしょうか。

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