新五千円札の顔として話題となっている津田梅子さんですが、彼女の活動を語る上で絶対に外せない人物がいるんです。それが大山捨松さん。
実は私、最初は知らなかったんですが、この二人って幼い頃から深い絆で結ばれていたんですよね。調べれば調べるほど、まさに運命的な出会いだったんだなって感動してしまいました。
どちらも明治時代の女性として、並外れた経験をされているんですが、その関係性が本当に興味深いんです。友情を超えた、まさに同志と呼べる関係だったのかもしれません。私も友達とこんな風に支え合えたらいいなって思っちゃいました。
大山捨松と津田梅子の運命の出会い
幼い頃からの盟友として始まった関係
大山捨松さんと津田梅子さんの関係は、本当に運命的な出会いから始まっているんです。二人は日本で最初の女子留学生として、岩倉具視率いる岩倉使節団の一員としてアメリカに渡り、当時の先進的な女子教育を受ける機会を得ました。
当時の年齢を聞いて驚いたんですが、捨松はまだ11歳で盟友となる津田梅子はわずか6歳だったんですよ。現代だったら小学生ですよね。そんな幼い二人が遠く離れた異国の地で出会うなんて、本当に運命としか言いようがありません。
特に印象的だったのは、捨松(11歳)、永井繁子(10歳)、津田梅子(6歳)の3人は、異文化の生活の中でも無理なく順応していった。この3人は親友・盟友として交流を続け、後に日本の女子教育の発展に寄与していくことになるんです。幼い頃から支え合って、大人になってからも同じ志を持ち続けるなんて、まさに真の友情ですよね。
アメリカ留学で深まった絆
アメリカでの留学生活は、二人の関係をより一層深いものにしていったようです。残った捨松、津田梅子、永井繁子、ホームステイ先の娘アリスは終生の友情を育むことになったんです。
留学中の経験について調べていて感動したのは、教育者を目指すアリスを見て、捨松も女子教育への夢を抱くようになったということ。同じ環境で学んでいたからこそ、同じ夢を持つようになったんでしょうね。
そして捨松はアメリカで大学に進学し、成績優秀者として卒業していきます。その後、足掛け12年に及ぶ留学を終え、1882年に帰国しました。この長期間の留学生活で培われた友情と共通の価値観が、後の二人の活動の基盤となったんだと思います。私も友達と同じ夢を追いかけられたら素敵だなって思いました。
帰国後それぞれ異なる道へ
帰国後の二人の人生は、とても対照的でした。山川捨松は、帰国前には日本に女子のための学校を設立する希望を持ち、就職先が見つからない中で、女子に英語を教える私塾を独力で設立する計画を立てたが実現には至らなかったんです。
一方で、1883年(明治16年)11月、捨松は政府高官(陸軍中将・参議・陸軍卿)で18歳年上の大山巌と結婚し、政府高官夫人の立場で留学で得た学識を生かす道を選んだのです。結婚によって自分の夢を諦めざるを得なかった捨松さんの心境を思うと、本当に複雑ですよね。
でも、日本に帰ったら教職に就いて日本の女子教育の先駆けとなる、という留学時代の捨松の夢は、政府の要職にある大山巌と結婚したことで頓挫し、捨松が自ら教壇に立つことはあり得なくなった。それでも女子教育にかける熱意は冷めることなく、生涯にわたって陰に日向にこれを支援しているというのが、本当に素晴らしいと思います。自分の夢は叶わなくても、友人の夢を支え続けるなんて、なかなかできることじゃありませんよね。
津田梅子の女子英学塾設立への全面支援
理想の学校設立に向けた協力
1900年、津田梅子さんが女子英学塾を設立する時の捨松さんの支援ぶりには、本当に感動してしまいました。明治33年(1900年)に津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立することになると、捨松は瓜生繁子ともにこれを全面的に支援したんです。
特に印象的だったのは、アリスも日本に再招聘して、今度は自分たちの手で、自分たちが理想とする学校を設立したのであるという部分。華族女学校では理想とする教育ができなかった経験があったからこそ、今度こそは自分たちの手で理想の学校を作ろうという強い意志が感じられますよね。
そして何より素晴らしいのは、教育方針に第三者の容喙を許さないという立場から、津田が誰からの金銭的援助もかたくなに拒んでいたこともあり、捨松も繁子もアリスもボランティアとして奉仕したということ。お金ではなく、純粋に理想を実現したいという思いだけで動いていたんですね。真の友情って、こういうものなのかもしれません。
具体的な支援活動と役割
捨松さんの具体的な支援内容を調べてみると、その献身ぶりに本当に驚かされました。捨松は学校資金募集にあたる委員会会長を務め、英学塾では顧問から後に理事や同窓会長を務め、梅子の渡米中には校長代理として卒業証書を渡すなど、積極的に塾の運営にも関与しているんです。
さらに、1904年(明治37年)の設立された際の理事は津田梅子、大山捨松の2名だったというのも興味深いですよね。まさに二人三脚で学校を運営していたということが分かります。
私が特に感動したのは、生涯独身で、パトロンもいなかった津田が、民間の女子英学塾であれだけの成功を収めることが出来たのも、捨松らの多大な支援が大きな理由のひとつだったという記述です。津田梅子さんの偉業って、実は大山捨松さんの支えがあったからこそ実現できたものだったんですね。一人の成功の陰に、こんなにも深い友情と支援があったなんて、本当に美しい話だと思います。
津田梅子の病気と捨松の最後の支援
二人の友情を最も象徴する出来事は、津田梅子さんが病気になった時のことかもしれません。大正8年(1919年)、津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切ったんです。
この時の捨松さんの行動には、本当に胸が熱くなりました。病気療養を理由に津田は退任を決め、捨松は紆余曲折を経てその後任を指名したが、風邪気味の体を押して後任のもとに依頼にでたことがたたり、新塾長の就任を見届けた翌日、倒れてしまうというんです。
そして悲しいことに、当時、世界各国で流行していたスペインかぜをわずらい、そのまま回復することなく、2月17日に58歳で没したのです。友人の学校のために、自分の体調を顧みず最後まで尽力されたんですね。こんな深い友情を貫いた人生って、本当に美しいと思います。私も友達のためにここまでできるかな…と考えさせられました。
まとめ
大山捨松さんと津田梅子さんの関係を調べてみて、改めて友情の素晴らしさを実感しました。幼い頃から共に過ごし、同じ夢を抱きながらも、それぞれ違う人生を歩むことになった二人。
捨松さんは結婚によって自分の教育への夢を直接実現することはできませんでしたが、生涯をかけて梅子さんの活動を支援し続けました。女子英学塾の成功は、津田梅子さんの功績だけでなく、大山捨松さんの献身的な支えがあったからこそ実現できたものだったんですね。
現代でも、こんな風に友達を支え続けられる関係って本当に貴重だと思います。お互いの夢を応援し合い、時には自分のことより相手のことを優先できる。そんな真の友情を築けた二人の人生は、私たちにとっても大きな教訓になるのではないでしょうか。津田塾大学という素晴らしい教育機関が今も続いているのは、この二人の友情と信念があったからこそなのかもしれませんね。