元日本テレビのアナウンサー・多昌博志さんの訃報が2026年4月9日に報じられました。多発肝腫瘍のため、4月7日に神奈川県内の病院で逝去されたとのことです。63歳でした。
私も多昌さんの実況は何度も聞いてきましたが、特に松井秀喜選手のプロ入り初本塁打の実況は今でも鮮明に覚えています。「ライトへ、ライトへ、ライトへ!」の名実況は、多くの野球ファンの記憶に残っていることでしょう。
突然の訃報に驚いた方も多いと思います。多昌さんは現在どのような活動をされていたのでしょうか。アナウンサー時代から現在に至るまでの歩みを振り返ってみたいと思います。
正直、63歳という年齢での急逝は早すぎますよね。掛布雅之氏や原辰徳氏からも追悼コメントが寄せられており、多昌さんがいかに多くの人に愛されていたかがわかります。
多昌博志のアナウンサーとしての輝かしい経歴と現在の活動
日本テレビ入社から名物スポーツアナに
多昌博志さんは1963年4月1日生まれで、神奈川県川崎市出身です。桐蔭学園高校から中央大学法学部に進学し、1985年に日本テレビに入社されました。同期には鷹西美佳さん、日高直人さんがいらっしゃいます。
入社当初からスポーツ中継を中心に担当され、プロ野球、サッカー、箱根駅伝など幅広いスポーツイベントで活躍されていました。特に野球中継では、そのはつらつとした耳なじみのいい声色で多くのファンに愛されていたんですよね。
私も子供の頃、巨人戦の中継でよく多昌さんの声を聞いていました。アナウンサーって選手と同じくらい記憶に残るものですが、多昌さんの実況はまさにその典型例だったと思います。
松井秀喜プロ入り初本塁打の伝説的実況
多昌さんのキャリアを語る上で絶対に外せないのが、1993年5月2日の巨人対ヤクルト戦での松井秀喜選手のプロ入り初本塁打の実況です。9回2死一塁から、高津臣吾投手の内角球を右翼席に放り込んだ瞬間の実況は伝説的でした。
「ライトへ、ライトへ、ライトへ!」「松井のプロ入り第1号!」「とてつもないルーキー!」という高揚感あふれる語り口は、今聞いても鳥肌が立ちます。あの瞬間の興奮は、多昌さんの実況があってこそ倍増したんじゃないでしょうか。
その他にも1989年の斎藤雅樹投手の11試合連続完投勝利や、2000年の日本シリーズ第2戦のON対決、2001年の長嶋茂雄監督の勇退試合など、数々の歴史的瞬間を多昌さんの声で記憶している野球ファンは本当に多いと思います。
アナウンス部から営業局へ転身
多昌さんは2003年にアナウンス部から営業局に異動されました。これは当時としては珍しいキャリアチェンジでしたが、放送業界を知り尽くした多昌さんならではの転身だったのでしょう。
2010年7月からは営業局営業戦略センター営業企画部長に就任し、2012年にはコンテンツ事業局次長として番組制作の企画面でも活躍されていました。アナウンサー時代とはまったく違う分野でしたが、多昌さんの豊富な経験が活かされていたのだと思います。
実際、アニメーション番組の企画や制作にも関わり、タツノコプロでは非常勤取締役も務められていました。放送の現場を知るプロとして多方面で活躍されていたんですね。
現在の日テレ学院院長としての活動と教育への情熱
第5代日テレ学院院長として後進育成
現在、多昌さんは日テレ学院の第5代学院長として活動されています。日テレ学院といえば、アナウンサーやキャスターを目指す人たちの登竜門的な存在ですよね。
2025年6月から学院長に着任された多昌さんは、自身のウェブサイトで「40年前、1985年に日本テレビにアナウンサーとして入社しました」と当時を振り返っています。巨人戦の視聴率が常時25%を超え、箱根駅伝中継が始まった時代からテレビ業界を見てこられた貴重な経験をお持ちです。
学院長としての多昌さんは「皆さんにアナウンサーという仕事の価値を伝え、理解していただき、夢を持ってチャレンジしてほしい」とコメントされています。後進育成への強い想いが感じられる言葉ですよね。
ティップネス取締役との兼務体制
多昌さんは現在、日テレ学院院長と併せて、フィットネスクラブ「ティップネス」の取締役常務執行役員も務められています。これは日本テレビからの出向という形での就任です。
一見すると放送業界とは関係なさそうなフィットネス業界ですが、実は日本テレビグループの一員としての経営参画なんですね。多昌さんの豊富なメディア経験が、ティップネスの事業展開にも活かされているのでしょう。
こういった複数の役職を兼務されているのも、多昌さんの幅広いスキルと信頼の証拠だと思います。テレビ業界で培ったコミュニケーション能力や企画力が様々な分野で重宝されているのがよくわかります。
同僚・関係者からの追悼の声に見る人柄と功績
掛布雅之氏「視聴者に野球をどう伝えるかを考えていた」
多昌さんの訃報を受けて、阪神OBの掛布雅之氏からは心のこもった追悼コメントが寄せられました。「解説者としての勉強をさせてくれたアナウンサーでした」という言葉からは、多昌さんが単なる実況者ではなく、解説者との連携を大切にする姿勢が伝わってきます。
掛布氏によると、多昌さんは「データなどの予習をしっかりしながらも、それに頼りすぎず、現場で起きたことをしゃべる」方だったそうです。これって、本当にプロフェッショナルな姿勢ですよね。準備は完璧にしつつも、生放送の臨機応変さも兼ね備えていたということです。
「常にテレビの視聴者に野球をどう伝えるかを考えている人でした」という評価からは、多昌さんの視聴者ファーストの姿勢がよく表れています。自己満足ではなく、常に見ている人のことを第一に考えていたんですね。
原辰徳氏「とにかく勉強家のアナウンサー」
巨人の原辰徳オーナー付特別顧問からも、温かい追悼の言葉が届いています。「突然の訃報を耳にした時、言葉を失いました」という原氏のコメントからは、多昌さんとの親密な関係性が感じられます。
原氏は多昌さんを「とにかく勉強家のアナウンサー」と評価し、「チーム状況を含めて巨人の選手のことも、相手のこともよく知っておられてね」と振り返っています。これは本当にすごいことで、表面的な実況ではなく、深い知識に基づいた質の高い放送をされていたということですね。
「個性ある方が多い日テレの歴代アナウンサーの中でも、印象に残る一人です」という原氏の言葉は、多昌さんがいかに特別な存在だったかを物語っています。63歳での急逝を惜しむ声は本当に多く聞かれますよね。
まとめ:多昌博志アナウンサーの遺産と影響
スポーツアナウンサーとしての金字塔
多昌博志さんの現在について振り返ると、アナウンサーとしての輝かしい経歴から、現在は日テレ学院院長として後進育成に力を注がれていることがわかりました。しかし、2026年4月7日に63歳で急逝されたことは、本当に残念でなりません。
松井秀喜選手のプロ入り初本塁打の実況を筆頭に、数々の歴史的瞬間を多昌さんの声で記憶している人は本当に多いと思います。私も含めて、多昌さんの実況で野球の面白さを知った人は少なくないでしょう。
掛布氏や原氏からの追悼コメントを見ても、多昌さんが単なるアナウンサーではなく、野球界の発展にも貢献されていたことがよくわかります。
教育者としての新たな挑戦
アナウンサーを退いた後も、営業局での企画業務やティップネスでの経営参画など、多彩な分野で活躍されていた多昌さん。そして現在の日テレ学院院長としての活動は、まさに人生をかけた教育事業だったのではないでしょうか。
「皆さんにアナウンサーという仕事の価値を伝え、理解していただき、夢を持ってチャレンジしてほしい」という多昌さんの言葉は、これから放送業界を目指す人たちにとって大きな励みになることでしょう。
40年間のテレビ業界経験を活かした指導は、きっと多くの後進たちの財産になっていたはずです。教育への情熱と使命感を持って取り組まれていた姿勢は、本当に尊敬に値しますよね。
まとめ
多昌博志さんの現在について調べてみましたが、2026年4月7日に63歳で逝去されたという訃報は本当にショックでした。日テレ学院院長として後進育成に力を注がれていた矢先の急逝で、関係者の皆さんも言葉を失っているのではないでしょうか。
1985年の日本テレビ入社から2003年のアナウンス部退職まで、多昌さんはスポーツアナウンサーとして数々の名実況を残されました。特に松井秀喜選手のプロ入り初本塁打の実況は、今でも多くの野球ファンの記憶に鮮明に残っています。「ライトへ、ライトへ、ライトへ!」の名実況は、まさに昭和から平成にかけての野球中継の金字塔でした。
アナウンサー退職後も営業局やコンテンツ事業局での企画業務、ティップネス取締役としての経営参画など、放送業界で培った豊富な経験を様々な分野で活かされていました。そして2025年6月からは日テレ学院の第5代院長として、アナウンサーを目指す人たちの指導に当たられていたんですね。掛布雅之氏や原辰徳氏からの追悼コメントを見ても、多昌さんがいかに多くの人に愛され、尊敬されていたかがよくわかります。本当に惜しい人を亡くしました。
