みなさん、大山捨松という女性の名前を聞いたことはありますか?私も最近まで詳しく知らなかったのですが、調べてみると本当に驚くような人生を送った方なんです。
実は大山捨松の夫は、陸軍大将として日清・日露戦争で活躍した大山巌なんですよね。でもこの二人の結婚には、想像を絶するドラマが隠されていました。なんと捨松は会津藩の家老の娘で、夫の大山巌は会津戦争で会津を攻めた薩摩藩の武士だったんです。つまり、敵同士だった二人が結ばれたということ!
しかも捨松は日本人女性として初めてアメリカの大学を卒業した才女で、「鹿鳴館の華」と呼ばれるほど美しく聡明な女性でした。そんな彼女がなぜ18歳年上の大山巌と結婚することになったのか、本当に気になりますよね。
今回は大山捨松と夫・大山巌の運命的な出会いから結婚、そして彼女が育てた子供たち、最後はスペイン風邪で亡くなるまでの激動の人生について詳しくお話ししていきたいと思います。
大山捨松の夫・大山巌との運命的な結婚
敵同士だった薩摩と会津の奇跡的な縁談
大山捨松の夫となった大山巌は、明治の軍人として日清・日露戦争で活躍した陸軍大将です。でも二人の結婚は、当時としては本当に前代未聞の出来事でした。なぜなら、捨松は会津藩の家老の娘で、大山巌は薩摩藩出身だったからです。
戊辰戦争では、大山巌は砲兵隊長として会津若松城を攻撃していました。一方、8歳だった捨松は家族と共に城に籠城し、砲弾の運搬などの危険な作業を手伝っていたんです。つまり、攻める側と守る側の関係だった二人が、後に夫婦になるという数奇な運命だったんですね。
会津戦争の後、山川家は青森の斗南藩に移されましたが、そこは極寒の不毛の地で、飢えと寒さで命を落とす人も出るほど過酷な環境でした。そんな中、捨松は11歳で日本初の女子留学生としてアメリカに渡り、11年間の留学生活を送ることになります。
11年間のアメリカ留学から帰国後の再会
1882年に帰国した捨松は、当時22歳の美しい女性に成長していました。ヴァッサー大学を優秀な成績で卒業し、英語だけでなくフランス語やドイツ語も流暢に話せる才女となっていたんです。でも帰国後の日本では、女性に高等教育は不要という風潮があり、捨松には働く場所がありませんでした。
そんな時、津田梅子の友人・永井繁子と海軍武官瓜生外吉の結婚披露宴で、運命的な出会いが起こります。余興で「ベニスの商人」を上演した捨松の美しさと洗練された振る舞いに、大山巌が一目惚れしてしまったんです。大山は当時、先妻を亡くして3人の幼い娘を抱えていました。
大山巌は参議陸軍卿という要職にあり、外国要人との外交の場に同伴できる教養ある女性を必要としていました。フランス語やドイツ語に堪能で、アメリカの名門大学を卒業した捨松は、まさに理想的な女性だったのです。
大反対を押し切った恋愛結婚
しかし、薩摩藩と会津藩という因縁のある家同士の縁談は、当然ながら猛反対にあいました。山川家の兄・浩は即座に断りましたが、大山巌も諦めませんでした。西郷隆盛の弟である西郷従道が連日のように山川家を訪れ、徹夜で説得にあたったそうです。
ついに「本人の意志を聞く」ということになり、捨松は大山巌と直接会うことになります。面白いことに、二人とも相手の方言が理解できず、最初は会話になりませんでした。大山の強い薩摩弁と、捨松の会津弁では意思疎通ができなかったんです。でもフランス語で話し始めると、とたんに会話が弾んだというエピソードが残っています。
わずか3ヵ月の交際で、捨松は大山の心の広さと人柄に惹かれ、結婚を決意しました。1883年11月8日に婚儀が行われ、翌月には完成したばかりの鹿鳴館で盛大な結婚披露宴が催されました。この時、招待状は全文フランス語で書かれ、人々を驚かせたそうです。
大山捨松と夫が育てた子供たちの家族構成
先妻の3人の娘と実子3人の大家族
結婚後の大山夫妻は、とても幸せな家庭を築きました。大山巌には先妻・沢子との間に3人の娘がいました。長女の信子、二女の芙蓉子、三女の留子です。捨松はこの3人の継母となり、「ママちゃん」と呼ばれて慕われていたそうです。
そして捨松は大山巌との間に2男1女をもうけました。長男の高、次男の柏、そして久子です。つまり先妻の子3人と実子3人の合計6人の子供を育てる大家族だったんですね。捨松自身が2男5女の家庭で育ち、アメリカのベーコン家でも14人の兄妹の中で生活していたので、大家族での生活には慣れていたようです。
興味深いのは、大山巌が新築した自邸をすべてドイツ風にしてしまった時のエピソードです。捨松は自分の留学経験から、「あまりにも洋式生活に慣れると日本の風俗になじめないのでは」と心配し、子供部屋だけは和室に直したそうです。子供たちの将来を思う母親の愛情が感じられますよね。
悲劇に見舞われた長女・信子の物語
先妻の長女・信子については、とても悲しい物語があります。信子は肺結核にかかってしまい、当時の慣習で夫の三島弥太郎と離縁されることになりました。これに怒った大山巌は信子を引き取り、邸内に療養室を建てて看護させたそうです。
実はこの信子をモデルにして、徳冨蘆花が書いたのが有名な小説『不如帰』なんです。「ああ、人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年も万年も生きたいわ!」という名ゼリフで知られる作品ですね。小説では継母が悪役として描かれていますが、実際の捨松は信子を献身的に看護していました。
看護師としての経験もある捨松は、家族への感染を防ぐため生活空間を分けながらも、信子に対しては愛情深く接していました。大山巌が日清戦争から戻った時には、信子の体調の良い時を見計らって親子3人で関西旅行に出かけるほどでした。それでも信子は20歳という若さで亡くなってしまい、家族にとって大きな悲しみとなりました。
おしどり夫婦として有名だった大山夫妻
大山巌と捨松はおしどり夫婦として有名で、とても仲の良い夫婦でした。捨松は人前でも夫を「イワオ」と呼び捨てにし、大山巌もそれを当然のように受け入れていたそうです。当時の日本では考えられないような、対等な夫婦関係だったんですね。
面白いエピソードもあります。熟年夫婦になってから、沼津の別邸にある牛臥山の標高が何メートルかで夫婦喧嘩をしたことがあったそうです。どちらの計算が数学的に正しいかということで、次男の柏に判定を求めたというんですから、微笑ましいですよね。翌朝になると二人とも平然としていたそうで、関係修復ができる自信があればこその夫婦喧嘩だったのでしょう。
大山巌は結婚後、芸者遊びも控えて家族との時間を大切にするようになったと言われています。二人の会話は主に英語やフランス語で行われていたそうで、国際的な夫婦だったんですね。
社会活動と津田梅子との友情
看護教育と女子教育への貢献
大山捨松は家庭の主婦としてだけでなく、社会活動にも積極的に取り組んでいました。特に看護教育の分野では大きな貢献をしています。1887年に日本赤十字社篤志婦人会の発起人となり、日清・日露戦争では戦傷者の看護や包帯作りなどの活動を指導しました。
日清戦争では25万人、日露戦争では120万人もの看護婦が動員されたと言われていますが、その背景には捨松の尽力がありました。また、アメリカの新聞に日本の立場を訴える記事を投稿し、世界世論を親日的に導く外交的な役割も果たしていたんです。
1900年には津田梅子が女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立した際、捨松は顧問として参画し、後に理事にも就任しました。自分の留学経験を活かして、日本の女子教育発展に大きく貢献していたんですね。
鹿鳴館時代の社交界での活躍
捨松は「鹿鳴館の華」とも呼ばれ、明治時代の社交界の中心人物でした。結婚披露宴が行われた鹿鳴館では、その後も多くの外交行事に参加し、流暢な語学力と洗練された立ち振る舞いで外国の要人たちを魅了していました。
日本初のチャリティーパーティー「鹿鳴館慈善会」も捨松が取り仕切ったもので、収益は全額共立病院に寄付されました。この資金をもとに、日本初の看護学校「有志共立病院看護婦教育所」が設立されるなど、社交活動を通じても社会貢献を行っていたんです。
当時の外交は夫人同伴の夜会や舞踏会が重要な役割を占めていたため、捨松の存在は大山巌の政治的地位向上にも大きく寄与していました。まさに公私ともに夫を支える理想的なパートナーだったと言えるでしょう。
津田梅子の後任選びに奔走
1916年に夫の大山巌が75歳で亡くなった後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、大山家の資産運用などに専念していました。ところが1919年、津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱状態に陥ると、捨松は再び表舞台に立つことになります。
病気療養を理由に津田梅子が塾長退任を決意すると、捨松は自らが先頭に立って学塾の運営を取り仕切り、後任の選定に奔走しました。紆余曲折を経て後任を指名し、新塾長の就任を見届けることができたのですが、この時すでに捨松自身も風邪気味だったそうです。
体調が悪い中でも責任感から活動を続けた捨松でしたが、新塾長の就任を見届けた翌日に倒れてしまいます。当時、世界中で猛威を振るっていたスペイン風邪に感染していたのです。
1919年2月18日、58歳での急逝
スペイン風邪は1918年から1920年にかけて世界中で大流行したインフルエンザで、日本でも約2380万人が感染し、約39万人が亡くなったとされています。特に1919年は第2波、第3波の被害が深刻で、多くの著名人も命を落としました。
捨松の義理の娘である大山武子の記録によると、大学病院の医師が往診してワクチン注射を行ったところ、捨松は突然「寒い」と言ってぶるぶると震え始め、たちまち顔色が変わって息を止めてしまったということです。当時のスペイン風邪に対するワクチンは、現在のインフルエンザワクチンとは異なるもので、効果も限定的でした。
1919年2月18日(一部資料では17日)、大山捨松は58歳という若さでこの世を去りました。夫・大山巌の死から3年後のことでした。アメリカの新聞では「Princess Oyama dies of influenza(大山公爵夫人、インフルエンザで死去)」という見出しで報じられ、国際的にも惜しまれる死となりました。
まとめ
大山捨松と夫・大山巌の物語は、まさに明治という激動の時代を象徴するような波乱万丈な人生でした。敵同士だった会津と薩摩の出身でありながら、運命的な出会いから恋愛結婚に至った二人の絆の強さには本当に感動させられます。
私が特に印象深いと思ったのは、捨松が継母として先妻の子供たちを愛情深く育て、実子と分け隔てなく接していたことです。現代でも継親と継子の関係は難しいものですが、捨松は自分の留学経験や豊かな人間性で、6人の子供たちに愛される母親となっていました。また、夫婦が対等な関係を築き、お互いを尊重し合っていた姿勢も、当時の日本としては革新的だったと思います。
そして何より、捨松が日本の女子教育や看護教育の発展に果たした役割は計り知れません。津田梅子と共に明治の女性たちの地位向上に尽力し、現在の私たちが享受している教育の基礎を築いてくださったのです。58歳という若さでスペイン風邪に倒れた最期は本当に残念ですが、彼女が残した功績は今でも私たちの心に生き続けています。激動の時代を強く生き抜いた一人の女性として、大山捨松の名前をもっと多くの人に知ってもらいたいなと思います。
