北杜夫の父親の職業は?精神科医と歌人の二刀流で文化勲章受章の斎藤茂吉

北杜夫さんといえば、どくとるマンボウシリーズで親しまれた作家として有名ですが、実はとても文学的な家庭に生まれ育った方なんですよね。私も北杜夫さんの本を読んでいて、いつも「お父さんってどんな方だったんだろう」と気になっていました。

調べてみると、北杜夫さんのお父さんは斎藤茂吉という、実は日本の文学史に名を刻む超有名人だったんです!歌人としても精神科医としても第一線で活躍された方で、文化勲章まで受章されているんです。これはすごいですよね。

でも親子の関係って、どんなに偉大な父親でも複雑なものがあります。北杜夫さんも、尊敬する文学者としての父親と、厳格で恐ろしい父親という二つの顔に悩まされ続けたようです。今日は北杜夫さんの父親である斎藤茂吉さんの職業や人物像について、詳しく見ていきたいと思います。

きっと読者の皆さんも、この親子の関係性や斎藤茂吉という偉大な人物について知ると、北杜夫さんの作品をまた違った視点で楽しめるようになるはずです。

目次

北杜夫の父親の職業と経歴

斎藤茂吉の二つの顔:精神科医と歌人

北杜夫さんの父親である斎藤茂吉さんは、実は二つの分野で活躍された非常に珍しい方なんです。一つは精神科医として、もう一つは歌人として、それぞれ日本でトップクラスの実績を残されました。

精神科医としては、東京帝国大学医科大学を卒業後、青山脳病院の院長を務められました。この病院は茂吉さんの養父である斎藤紀一が創設したもので、当時としては非常に立派な精神病院だったそうです。しかし茂吉さん本人は病院経営よりも、歌作りや文学活動の方に情熱を注いでいたのが正直なところのようですね。

歌人としては、正岡子規の系譜を受け継ぐアララギ派の中心人物として活躍し、1951年には文化勲章も受章されています。代表作の歌集『赤光』は今でも多くの人に愛読されている名作です。医師でありながら文学者という、現代ではなかなか考えられない二刀流だったんです。

青山脳病院院長としての茂吉

斎藤茂吉さんは1927年に青山脳病院の院長に就任されました。この病院は養父の斎藤紀一が1907年に創設したもので、赤煉瓦のローマ式建築で有名だったんです。ただ、1924年に火災で全焼してしまい、その後世田谷区松原に移転して再建されました。

正直なところ、茂吉さんは病院経営にはあまり向いていなかったようです。歌作りや文学研究の方に夢中で、病院の運営は二の次という感じだったと言われています。戦時中には故郷の山形に疎開し、最終的には病院を東京都に委譲してしまいました。これが現在の東京都立梅ヶ丘病院(2010年閉鎖)の前身なんです。

でも考えてみれば、医師としての収入があったからこそ文学活動に専念できたという面もありますよね。当時の歌人で生活できる人はほとんどいなかったでしょうから、茂吉さんにとって医師という職業は文学者としての活動を支える重要な基盤だったのかもしれません。

文化勲章受章歌人としての偉業

斎藤茂吉さんの歌人としての活動は本当に素晴らしいものでした。1906年に伊藤左千夫に師事してから、生涯で15,000首以上もの歌を詠まれたそうです。これってすごい数ですよね!

特に有名なのが1913年に発表された第一歌集『赤光』です。母の死を歌った「死にたまふ母」の連作は、多くの人に感動を与え続けています。「みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる」という歌は、国語の教科書にも載っているので、読者の皆さんも覚えがあるのではないでしょうか。

茂吉さんはアララギ派の中心人物として、写実的な歌風を追求されました。また、柿本人麻呂の研究でも帝国学士院賞を受賞するなど、学者としても一流の業績を残されています。1951年の文化勲章受章は、その功績が国家レベルで認められた証拠といえるでしょう。北杜夫さんにとって、これほど偉大な父親を持つことは誇りでもあり、プレッシャーでもあったに違いありません。

北杜夫の父親の家族構成

北杜夫の父親の家族構成

斎藤茂吉と輝子の結婚

斎藤茂吉さんは1914年に、養父・斎藤紀一の次女である輝子さんと結婚されました。茂吉さんが31歳、輝子さんが19歳の時でした。実は茂吉さんは1905年に斎藤家の養子として入籍していたのですが、その時輝子さんはまだ11歳だったんです。

輝子さんは学習院女学部出身のお嬢様で、とても活発で気の強い女性だったようです。後に「猛女」と呼ばれるほど破天荒な性格で、79歳で南極に行くなど、とてもアクティブな方でした。一方の茂吉さんは真面目で研究熱心な学者肌。この正反対の性格が、夫婦関係にはなかなか難しい面もあったようですね。

1933年にはダンスホール事件で一時別居することになり、約12年間別々に暮らしていました。でも戦後は同居を再開し、茂吉さんが亡くなるまで輝子さんが献身的に看護されたそうです。夫婦というのは本当に複雑で深いものがありますね。

茂吉夫妻の子どもたち

斎藤茂吉さんと輝子さんの間には4人の子どもがいました。長男が斎藤茂太さん、次男が北杜夫さん(本名:斎藤宗吉)、そして娘が2人います。この兄弟、本当にすごいメンバーなんですよ!

長男の茂太さんは「モタさん」の愛称で親しまれた精神科医・エッセイストです。父親と同じく精神科医の道を選び、斎藤病院を継ぎながら、温かみのあるエッセイをたくさん書かれました。飛行機好きとしても有名で、息子の章二さんが手がけたブルーインパルスの機体塗装は今でも使われています。

次男の宗吉さんこそが、北杜夫として活躍した作家です。父親の意向で医学部に進みましたが、文学への思いを捨てきれず、「北杜夫」のペンネームで小説を書き続けました。父の七光りと言われるのを嫌って本名を隠したペンネームでしたが、結果的に大成功を収めましたね。精神科医と作家の二刀流という点では、まさに父親譲りでした。

文学者一家の系譜

斎藤家って本当に文学者一家なんですよね。茂吉さんが歌人、北杜夫さんが小説家、茂太さんもエッセイストと、それぞれが文筆業で成功を収めています。そして現在は北杜夫さんの娘である斎藤由香さんがエッセイストとして活躍されています。

由香さんは成城大学でお祖父様の斎藤茂吉について卒論を書かれ、現在はサントリーでお仕事をしながらエッセイストとしても活動されています。特に祖母の輝子さんについて書かれた『猛女とよばれた淑女』は、とても面白い本として評判になりました。

この家系を見ていると、文学的才能が確実に受け継がれているのがよく分かります。でも面白いのは、みんな本業は別にあるんですよね。茂吉さんは医師、北杜夫さんも精神科医、由香さんはサラリーマンと、文筆業一本で生計を立てているわけではありません。これって現実的でもあり、文学を純粋に楽しめる環境でもあるのかもしれませんね。

北杜夫の父親の人間関係

北杜夫の父親の人間関係

父と息子の複雑な関係

北杜夫さんと父親の茂吉さんの関係って、本当に複雑で興味深いものがあります。北杜夫さんは松本高校時代に初めて父親の歌集を読んで、その素晴らしさに感動したそうです。それまでは「恐ろしいカミナリ親父」としか思っていなかったのに、優れた文学者として尊敬するようになったんです。

でも進路のことになると話は別でした。北杜夫さんは昆虫好きで動物学者になりたかったのですが、茂吉さんは「医者になれ」と厳命しました。「お前はバカになった」なんて厳しい手紙まで送ったそうです。結局北杜夫さんは東北大学医学部に進学しましたが、授業にはろくに出ず、夜な夜な小説を書いていたとか。

父親に内緒で「北杜夫」というペンネームを使ったのも、茂吉さんの息子だと知られたくなかったからなんです。でも皮肉なことに、最終的には父親と同じように精神科医と文学者の二刀流になりました。晩年の茂吉さんは北杜夫さんの創作活動を認めて和解したそうですが、この父子関係は本当にドラマチックですよね。

茂吉の人間性と性格

斎藤茂吉さんって、歌人としては繊細で深い感性の持ち主でしたが、普段の生活では結構クセのある人だったみたいです。食いしん坊で癇癪持ち、そして非常にワンマンな性格だったと記録に残っています。

妻の輝子さんとの関係も波乱万丈でした。お互い強烈な個性の持ち主だったので、家庭内はいつも嵐が吹き荒れていたとか。子どもたちは右往左往していたそうです。でも面白いのは、茂吉さんは永井ふさ子という女性との恋愛でも有名なんです。50代の時に20代の美しい女性と恋に落ち、100通近い往復書簡を交わしたという話もあります。

また、茂吉さんは精神科医としてはあまり優秀ではなかったと言われています。病院経営にも興味がなく、患者さんよりも歌作りの方に夢中だったようです。でもこの人間臭さや不完全さが、逆に魅力的な歌を生み出す源になっていたのかもしれませんね。完璧な人間だったら、あんなに心に響く歌は詠めなかったでしょう。

文学界での茂吉の位置づけ

斎藤茂吉さんは近代短歌界では絶対に外せない存在です。正岡子規の系譜を受け継ぎ、アララギ派の中心人物として活躍されました。伊藤左千夫に師事し、古泉千樫や土屋文明といった歌人たちと切磋琢磨しながら、日本の短歌を発展させてきました。

特に茂吉さんが提唱した「実相観入」という技法は、対象をありのままに見つめながら、そこに自分の心情を重ね合わせるという独特のものでした。これは万葉集の研究から生まれたもので、古典と現代を結ぶ架け橋のような役割を果たしています。

森鷗外の観潮楼歌会にも出席し、与謝野鉄幹、北原白秋、石川啄木といった当時の文学界の大物たちと交流していました。医師でありながら文学者として第一線で活躍できたのは、茂吉さんの才能と努力、そして時代背景があってこそでしょう。現代では医師と文学者の両立はなかなか難しいですが、茂吉さんの時代だからこそ可能だった生き方だったのかもしれません。

北杜夫の父親と母親の関係

北杜夫の父親と母親の関係

輝子という破天荒な女性

北杜夫さんの母親である斎藤輝子さんは、本当に型破りな女性だったようです。学習院女学部出身のお嬢様でありながら、「猛女」と呼ばれるほど活発で、父親の紀一さんからは「なんで男に生まれなかったのか」と言われるほどでした。

輝子さんの行動力は本当にすごくて、戦後は世界各地を旅行し、108カ国も訪れたそうです。そして79歳という高齢で南極大陸にまで行ってしまったんです!これって今でも驚きですが、当時としては本当に前代未聞の冒険だったでしょうね。

でも一方で、1933年のダンスホール事件では話題になってしまいました。これは華族や上流階級の婦人たちがダンス教師と不適切な関係を持ったとされる事件で、輝子さんも取り巻きの一人として事情聴取を受けたんです。この事件が茂吉さん夫婦の長期別居のきっかけになったのですが、輝子さんらしいエピソードといえばそうかもしれません。

夫婦の別居と和解

茂吉さんと輝子さんの夫婦関係は、本当に波乱に満ちていました。もともと性格が正反対で、茂吉さんは学者肌の真面目な人、輝子さんは自由奔放なお嬢様タイプ。この組み合わせでうまくいくはずもなく、家庭内では頻繁にケンカが起こっていたそうです。

ダンスホール事件をきっかけに、ついに茂吉さんの堪忍袋の緒が切れて別居を決意。1933年から1945年まで、実に12年間も別々に暮らしていました。この間、茂吉さんは永井ふさ子という女性との恋愛にのめり込んでいたんです。茂吉さんも人間らしい一面がありますよね。

でも戦争が激しくなって、輝子さんが茂吉さんの故郷である山形に疎開することになったのを機に、1945年から同居を再開しました。そして最期まで、輝子さんは寝たきりになった茂吉さんを献身的に看護したそうです。どんなに喧嘩ばかりしていても、最後は夫婦の絆が勝ったということでしょうか。人間関係って本当に複雑で深いものがありますね。

母親が北杜夫に与えた影響

輝子さんの破天荒な性格は、確実に北杜夫さんにも受け継がれているように思います。北杜夫さんの躁うつ病による奇行の数々を見ていると、母親譲りの型破りな面があるのかもしれませんね。株で大損したり、マンボウ・マブゼ共和国を建国したりと、常識では考えられない行動力は輝子さん似かもしれません。

でも輝子さんは孫の由香さんをとても可愛がったそうです。由香さんが書かれた『猛女とよばれた淑女』を読むと、破天荒ながらも愛情深い祖母の姿が描かれています。実際、由香さんも世界を飛び回るサラリーマンとして活躍されているので、輝子さんの行動力は確実に受け継がれているようです。

輝子さんのような強烈な個性の母親がいたからこそ、北杜夫さんも型にはまらない自由な発想で小説を書けたのかもしれません。普通のお母さんだったら、あんなにユニークで面白い作品は生まれなかったでしょうね。

まとめ

北杜夫さんの父親・斎藤茂吉さんについて詳しく見てきましたが、本当に多面的で魅力的な人物でしたね。精神科医として青山脳病院の院長を務めながら、歌人としてアララギ派の中心人物として活躍し、最終的には文化勲章まで受章された偉大な人物でした。

でも人間としては決して完璧ではなく、癇癪持ちで病院経営は苦手、妻との関係も複雑で、若い女性との恋愛スキャンダルもありました。そんな人間臭い一面があったからこそ、心に響く歌を詠むことができたのかもしれません。また、北杜夫さんとの父子関係も、尊敬と反発が入り混じった複雑なものでした。

私が一番印象に残ったのは、茂吉さんも北杜夫さんも、結局は医師と文学者という二刀流になったことです。息子は父親の反発から文学を始めたのに、最終的には父親と同じ道を歩んだというのは、血筋の不思議さを感じます。現在は孫の由香さんもエッセイストとして活躍されているので、斎藤家の文学的DNAは確実に受け継がれているようですね。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次